よしはち中央局

宇佐川 芳鉢(うさがわ よしはち)の活動拠点

萌えとモフモフ

こんにちは。宇佐川芳鉢です。

今回は、ある考察について書いていきます。すごく長い大作です。

 

導入部

「アニメキャラ」の受容から見えること

なんか、海外では「アニメキャラってどうして白人なの?」って訊かれるそうですね。

で、そう訊く人たちはだいたい白人の文化圏に居住していることが多いようです。

それはつまるところ、アニメキャラを「自分たち」と認識しているのではないかと思うんですよね。

なんでわざわざ日本人が「自分たち」のキャラを作ってるのか?みたいな。

面白いことに、キャラの肌を褐色にすると、今度は黒人の文化圏の人たちが同じような質問をするのだそうです。

この同調ぶりは、思想や価値観を越えたものであるように感じられます。

アニメ調というのは、人類に対し普遍的に通用するデフォルメ、言ってしまえば棒人間に近い要素を持っているんでしょうね。

アニメキャラのデザインを構成する要素

昨今のアニメ調のデザインといえば、所謂「萌え絵」を基調としたものが多くなっています。

「萌え絵」のデザインは、特に人間が「美しい・可愛い」と感じる顔のデフォルメだと言われています。

では、その「萌え絵」とは、どのような要素から構成されているのでしょうか?

まず言えるのは、「萌え絵」とは「眼」が特徴的なデザインですよね。

実はこれ、犬や猫などの愛玩動物の「愛らしさ」を「眼」などの人体のパーツに落とし込んだ姿だと捉えるとしっくりきませんか?

生き物の放つエロスを人間に置き換えた、翻訳した、みたいな。

では、さっそく検証。

まずは動物のフリー素材から見ますか。

「写真AC」から代表的なところで犬と猫の画像を引用。

こちらを見上げる犬。くりくりの瞳が見る者の心を射抜く。

驚いた表情の猫。その瞳は心象をダイレクトに伝えてくれる。

次に、アニメ調が得意な「pixai」で生成した画像で見比べてみましょう。

上の子たちの画像を基に、アニメ調の女の子を生成します。

まあ、要するに擬人化ですね。

良いですね。しかもこの表情はかなり「犬っぽい」要素が強いと思います。元の子の面影が強く残りました。

表情が難しいですね。元の子の面影はありますが、表情のインパクトが消えて「猫っぽさ」は無くなってしまいました。

どうです?

なんとなく、しっくりきませんか?

表情のダイナミックさと分かり易さ、じっとこちらを見つめる大きな瞳、その中に映えるハイライト……。

犬や猫ってのは「眼」によって自分の感情を訴えかけてきますよね。

そこへ、目鼻立ちを人間らしく整えたらアニメ調のキャラに仕上がります。

まさに人間と動物の「良いとこ取り」ではないですか……!

個人的には、無表情でこちらをじっと見つめる感じなら犬っぽい可愛さ、表情がコロコロ変わるようなら猫っぽい可愛さの要素が強くなるような感じがします。

表情のダイナミックさによって、「可愛さ」の中にグラデーションが生まれています。

 

イメージ図。イラストは「イラストAC」から拝借。

 

この感覚、伝わっているでしょうか。

うまく言葉で説明できないのが悔しいです。

「萌え」の愛らしさには、動物の愛らしさと共通したものが感じられます。

動物を愛でる感覚は「萌え」の感覚と非常に近しいものだと思うんです。

主題

考察のテーマ

さて、以上が長い前置きとして……。

どうせ主観的にしかならないなら大胆な考察を。

「萌える」感情と「動物を愛でたい」感情は非常に近しいものがあると言えそうです。

そして「萌え」と「性欲」は心の動きとして非常に類似したものであると聞きます。

であれば……。

「萌え」と「動物を愛でる心」と「性欲」の三者の距離はかなり近しいのではないか。

ひいては「動物を愛でる」感情には「性欲」の欲動に近しい部分があるのではないか。

今回はそんな剣呑な問いに挑みたいと思います。

モフり欲と萌えと……

「萌え」の受容から見えること

「モフり欲」というのは私の造語です。

動物をモフモフと愛でたい欲求を表します。

それが「萌え」と感覚的に繋がりがありそうだ、というのがこれまでの話でした。

だからといって「動物を愛でる心」と「性欲」の距離が近いと断ずるのは早合点ではないか。

そういう批判はごもっともです。

しかし、考えてもみてください。

「萌え」を基調としたアニメ調のデザインは、ほんのちょっと前までは公の場では忌避されていましたよね?

それが、近年では忌避されることもなく、しばしばお茶の間にまで入り込んできます。

そして世界に飛び出しても通用する普遍性まで手に入れました。

この現象は、何か特有のものだと思いませんか?

単にアニメが社会に浸透したから、では理由になりません。

むしろ、なぜあんなに「忌避」され「嫌悪」されていたものが、どうしてこれほど広く市民権を獲得するまでに至ったのか?

この二面性に対する答えにならないと、理由になりません。

それに対する私の考えはこうです。

それは、アニメ調のデザインが「人受けが良い」要素と「忌避される」要素の二つを併せ持っていたせいだったのではないか、と。

「忌避される要素」とは、つまり「性欲」をくすぐってくる「可愛さ」を持っていたこと。

「人受けの良い要素」とは、つまり「動物を愛でる心」をくすぐってくる「可愛さ」を持っていたこと。

すなわち、「萌え」がエッチでスケベな「可愛さ」と、小動物的な撫でくり回したくなるような「可愛さ」を両立させていたからこそ、この現象は起きたのではないか。

そこから言えるのは、両者の違いは「可愛さ」の中での「グラデーションの違い」でしかないということです。

ここからは「性欲」と「モフり欲」を区分する境界は、いかに曖昧なものであるかという考察に移ります。

行為として表出する好意

「性欲」と「モフり欲」の欲動は、心のはたらきとして、ずいぶん類似しているように感じられるのです。

ひとつ例え話を用意しました。

若い女の子のケツを触るオヤジって、さすがに最近はあまり見なくなりましたよね。

まあ、それは置いといて、語弊を恐れずに仮説を述べますと……。

セクハラ行為は、人間が犬や猫に無理やりにでも頬ずりをするのと、心理的にはかなり似通ったものになるのではないか。

好意の表出の仕方から見ても、似た感情の動きをしていると思うんです。

彼らの振る舞いからは、ある行動原理が推論できます。

それは、相手のリアクションを楽しむための行動である、ということです。

何らかの欲望を発散されるのが目的ではなく、むしろ相手のリアクションを楽しむこと自体を目的としている感じが、両者ではとても似通っていませんか。

「あらら、ごめんよ~♡」って感じが。

重ねて誤解を覚悟で言えば、両者とも好意ゆえの産物であるということです。

セクハラ行為に関しても、やはり相手を「可愛い」と思う好意がないと出来ません。

そして「可愛い」という感情は、言ってしまえば「相手をナメている」部分がないと成立しえない感情でもあります。

自分のペットが自分に危害を加えないという信頼は、ともすれば、人間の都合をペットに一方的に押し付けているという側面があります。

セクハラは、言わずもがな、相手の反撃を想定していないからこそのものです。

もちろん、セクハラは相手の尊厳を傷つける行為であり、自分のペットに対する頬ずりはそうでない、という明確な線引きはあります。

しかし、そうした善悪を抜きに語れば、両者における心のはたらきは類似していると言い切っても大過ないかと思われます。

例え話を重ねてしまいますが、名前を呼んでも愛犬に無視される人っているでしょう?

「〇〇ちゃ〜ん♡おいで〜♡」って呼んでもプイッとそっぽ向かれるみたいな。

そういう時、そういう人って、大抵の場合「コイツ本当に可愛くない!」「もうエサもやらん!」とか言って怒り出すんですよね。

これって、セクハラを拒絶された権力者の振る舞いと瓜二つなんですよ。

「あいつには愛嬌というものが無い!」「すこし懲らしめてやろう!」みたいな。

飼い犬に手を噛まれる、なんて言葉もありますが。

そんな人、周囲にいませんか?

あくまで一例ですが、両者の共通項を見つけることの容易さは伝わるかと思われます。

セックスシンボルとしてのモチーフ

また、セックスシンボル的な衣装など、セクシーなイメージに動物の意匠をあしらったものが多くあるのも気になるポイントです。

動物性(ワイルド)と性的魅力(セクシー)が重なりやすいのは見逃せません。

パッと思いつくものを挙げておきましょう。

  • バニーガール……言わずと知れたエッチな衣装。アメリカの成人雑誌『PLAYBOY』の企画から生まれたとされるウェイトレスの衣装です。いつも発情期であるウサギの生態をモチーフにしているだけあって、一目で見て分かるエロスです。
  • 狐巫女……一説によると、巫女は日本神話に登場するアメノウズメが起源なのだとか。裸になって天の岩戸の前で踊り、観客を沸かせたという神話のエピソードがあります。ここからも、往時の巫女にどのような役割が期待されていたのか推し量ることができますね。その巫女と神社によくいる狐の神様の「お稲荷さま」が合体した姿。私見を申せば「萌え」と言えばこれって感じ。
  • 女豹のポーズ……グラビアでよくある四つん這いになるポーズ。しなやかな肢体をこれでもかと強調させる。いまとなっては定番という感じがありますが、これに「女豹」と名付けたのは凄いセンスだと思います。
  • 子ネコちゃん……女の子をもてあそぶ感じのするかなりエッチな呼び方。起源はよく分かりませんが、洋画っぽい言い回しなので英語の「Pussycat(プッシーキャット)」から来ていそうな感じがします。「Pussy(女性器)」で「cat」ですからね。そりゃあエロいわけだ。

こうして列挙しながら見ていると、「動物の肉食性」と「男性的な性衝動」が重ねられている感じがします。

そういえば肉食系男子・草食系男子のくくりもありましたね。

食べること、捕食することを性的なイメージで捉えているのでしょうか。

「ワイルド」と「セクシー」が類似したものとして扱われることの事例としては十分でしょう。

論結

愛情と性欲のあいだ

ここまでに「萌え」と「モフリ欲」と「性欲」の三者の距離の近さ、ひいては「モフリ欲」と「性欲」の近似性について論考してきました。

ここからは、私の個人的な主張がメインとなります。

一般的に、愛情と性欲とのあいだには明確な線引きがあるものとして扱われています。

たとえば、家族愛は無条件に素晴らしいものとして扱われる一方、近親相姦はこれまた無条件に不道徳なものとして扱われています。

別にそれに対しては特に不満は無いんですよ。

ただ、私が気になるのは、不道徳が犯されたことに対する拒絶反応についてです。

つまり「こんなことをするなんて有り得ない!」というヒステリックな反応に引いてしまうわけなんです。

この言葉には、他人の心に対する無理解、人間理解のつたなさ、理解が及ばないものへの非情さ、そういったものが含まれている気がします。

ここだけの話、正直、個人的には「そういった感情」ってかなり理解できるんですよね。

こういう不道徳なものであっても、すべては普段の生活的感情の「延長線上」にあるものだっていう感覚が、私にはどうしても拭えないんですよ。

「魔が差した」なんて言い方もありますが、ちょっとした手違いで暴力になり得てしまうところに、性の奥深さや愛の孤独さがあるような気さえしてきます。

相手あっての性愛というものです。

そこに身体を相手に委ねることの尊さがありませんか?

「それ」が「愛撫」なのか「暴力」なのか、決めるのは自分ではありません。

すべては相手の判断に委ねられます。

そのもどかしさの中に、身体を相手に委ねることの尊さがあると思うのです。

異常性癖と生殖

同様に、私は「異常性癖」という枠組みも好きではありません。

まったく生殖との関わりが無い部分に性的魅力を見いだすことを、異常性癖と呼んだりしますよね。

たとえば、スカトロ(糞尿愛好)なんかは、自分には絶対に理解できない領域です。

でも、捉え方を変えて、糞尿のことを「排泄物」ではなく「分泌物」として見ると、この性癖さえ、そんなに変でもない気がしてきます。

汗、唾液、涙、母乳、膣分泌液、精液などなど……。

それらと糞尿が同じくくりだと言うのなら、エロいというのも理解できるような気がします。

理解は難しいのですが、だからといって拒絶はしたくないのです。

性に関するタブー

私は、おそらく、性に関するタブーが非常に気に入らないんだと思います。

それは別に、私の個人的な欲求が抑圧されているからではなく、性に関する理解は人間理解に不可欠な部分だと考えているからです。

世の中には社会悪とされる性的嗜好がありますよね。

たとえば、小児性愛とか。

あまり大声では言えませんが、児童ポルノだって別に良いじゃないですか。

だって、子どもを可愛いと感じるのは、きわめて普遍的な感情じゃないですか。

やっぱり「健全な可愛さ」と「性的な可愛さ」の差って、地続きのグラデーションでしかないんですよ。

私としては、子どもを性的に見るのが異常とは、どうしても思えないんです。

子どもの「性的な可愛さ」を否定することは、むしろ「健全な可愛さ」をも否定することに繋がりませんか?

子どもに冷徹な社会に児童ポルノは存在し得ないし、その逆もまた然り……と考えるのは荒唐無稽でしょうか?

とはいえ、もちろん実際に手を出して子どもを傷つけることは絶対に良くないことだと思います。

でも、それとこれとは話が別です。

たしかに、男性的な性的興奮は性的暴力と結びつきやすい危険性を孕んでいるため、大目に見るというのが難しい側面もあります。

というより、性的興奮を伴った視線そのものが、恐喝や誹謗中傷のような、ある種の暴力であると規定しても差し支えないかもしれません。

しかし、それでもなお、性的興奮は愛情の形態の一つだと思うんです。

その根本的な感情を無視すると、途端に、人間への愛情みたいなものを見失ってしまうような感じがするのです。

これもまた大声では言えませんが、だから私は「LGBT」に関する話題でもモヤモヤとしたものを感じます。

人が人を愛することや性的興奮や恋愛感情を持つことを、細かく区別して考えるやり方に違和感があります。

まあ、あれは必要に迫られて生み出されたものだから、あまり文句をつけるのもアレですが……。

こうした問題には、あともう一歩、うまい表現ひとつ、的確な言葉ひとつ見つかれば、妥当な落とし所に辿り着けそうな雰囲気を感じます。

その最後のピースが、性的なタブーとされている中にあるのではないかと私は睨んでいます。

それだけに歯がゆいですね~。