よしはち中央局

宇佐川 芳鉢(うさがわ よしはち)の活動拠点

ヤンキーという死語

こんにちは。宇佐川芳鉢です。

今回は「ヤンキー」について書きたいと思います。

日本のサブカルチャー

日本のサブカルチャーは大きく三つに分けることが可能なのだそうです。

それが「オタク」「サブカル」「ヤンキー」の三つの分け方ですね。

そのなかでも「オタク」と「サブカル」って、今でも言葉として現役ですよね。

いまだに色んな使われ方を見かける上、意味も通用します。

でも「ヤンキー」だけはなぜか死語になってしまった感があります。

いまの「ヤンキー」文化圏っぽいムーブメントを見ると、「ラップ界隈」とか「ストリート界隈」とか、別の名称で呼ぶ方がしっくりきます。

自分はおそらく「ヤンキー」文化に一番親しみを感じるタイプです。

だからこそ余計に思うんでしょうね。

「心優しきヤンキー」って、自分の中ですごい憧れだったんですよ。

ちゃんと謝れるし、誰かをいじめたりしないし、集団行動も出来る。

なのに「ヤンキー」っていうあの感じ。

あの「ヤンキー」という言葉が表現していた「絶妙なニュアンス」って、今ではすっかり形骸化してしまった雰囲気さえあります。

それが残念でならないのです。

反抗の文化

「ヤンキー」とは、一言で表せば「反抗の文化」ってことだと思います。

たとえば、学校の制服を着崩してみたりとかね。

う~ん……いや、それは、ハッキリ言ってダサいとしか思えないんですが……。

まあ、その延長線上にあるものが「ヤンキー」としての在り方だと思います。

「ダサい」と「カッコいい」は紙一重

どうして学校での反抗はダサいのか。

それは「本当の反抗ではない」からだと思います。

保護下の中での反抗というのは、ただの「甘え」であって「反骨」ではありません。

敢えて言うなら「美学」とか「哲学」とか、そういう信念に基づいた反抗でないと。

自分にはそんな言い方しか思いつきません。

それは本当に紙一重の世界なんです。

現代の「ヤンキー」はどこに?

日本のサブカルチャー文化は、あらゆる場所に融合し溶けだして無形化していったそうです。

その影響で、「オタク」的な要素や「サブカル」的な要素というのは、娯楽の枠を越えてあらゆる場面で目にすることが増えました。

しかし「ヤンキー」的な要素については、その限りではないように思われます。

今となっては形式だけが独り歩きし、その本質のところは、むしろ変質してしまっているように見えて仕方がないのです。

現代の「ヤンキー」はどこに居るんでしょうか?

私見ですが、それは「一匹狼として頑張っている人たち」を探すことで見つけることが出来るのではないかと考えています。

そこで、意外と現代においては「物書きとして独立している人たち」に、この手の精神性の人たちが多く見受けられるような気がするんですよね。

私が特に文章の世界に惹かれたのも、そうした部分が大きいような気がします。