よしはち中央局

宇佐川 芳鉢(うさがわ よしはち)の活動拠点

文化の豊かさを測る指標

こんにちは。宇佐川芳鉢です。

今回は気になったことを検証する内容です。

「創作文化の豊かさ」はどのような指標で示されるのか

日本の創作環境における特徴として、クリエイターの担い手が多いことが挙げられると聞きます。

漫画業界にその傾向が強いようですが、アマチュアの創作者が潜在的に多く存在し、その層の厚さゆえに、クリエイティビティな環境が形成されていると。

それを客観的に外部へと示すには、指標というものが必要になってきます。

判断の基準点ができれば比較や概測が可能なるため、客観性が担保されるのです。

その指標は数値化できるものだけでなく、もっと抽象的な図式でも成立します。

今回はそんな抽象的な図式を二つ、検証してみたいと思います。

「ピラミッド」の比喩

疑問点

まずはピラミッドの喩えが一番ポピュラーでしょうか。

「人が多いほど頂点の高いピラミッドができる」という喩えですね。

ピラミッド型に成り立つ組織の図。

しかし実際、この喩えは指標としてどこまで適したものなのでしょうか?

ピラミッド状に文化の豊かさは形成され、土台となる底辺を形成する担い手が多いほどその頂点は高くなる。

たしかに分かり易く、一見もっともらしい言説です。

でも、どうして、「底辺の数が多い」ほど「その頂点は高くなる」と言い切れるんでしょうか?

土台レベルのものばかりが増え、上に乗っかっていくほどのものがない、という状況にはどうすれば説明がつくのでしょう?

これではまるで、量は質を兼ねることが前提にあるように聞こえます。

その関連性に疑問の目を向けられると、この図式は一気に説得力を失うような気がします。

考察

一方、企業組織における人材がピラミッド型を形成するのは何故か。

それは、適性を測る「選考」によって、選りすぐりの適材たちがしのぎを削る環境が形成された結果だと考えられます。

これをクリエイターの例に当てはめると…。

まず、企業における「選考」が何に置き換えられるかが焦点です。

私は「受容者の評価」がそれに当てはまるのではないかと考察しました。

読者や審査員の意見によって、ある種の「選考」が課せられる宿命がクリエイターにはあると思います。

これにより「受容者の評価」による「淘汰圧」と「評論」が生まれ、さらに多数の意見が擦り合わさることで、作品の評価はおおよそ正当なものに落ち着くことが期待されます。

その関係性は相対的なものなので、良くも悪くも上下関係がついて、自然とその評価はピラミッド型に収斂することでしょう。

これで「ピラミッドの比喩」への説得力を補強できそうです。

「土壌」の比喩

有機的な表現

ピラミッドの他にも、文化の豊かさを推測するものとして、聞きなじみのある比喩は幾つかあるかと思われます。

しかし、なかでも「創作の土壌」という表現は、取り分け実態をうまく捉えていると感じます。

なんかとても有機的な比喩表現なので、自分としてはとても好きな言い方です。

栄養の豊かな土壌には豊かな作物が実ります。

同じように、土壌が枯れれば作物も枯れるのが定めというものです。

作物(作品)を大切に育むイメージもそうですが、ここでは、なによりも「それ」を育む「土壌」の方にクローズアップしたいと思います。

というのも、「土壌」の比喩は、文化に往々にして見られる「不思議な傾向」について実に見事に言い表しているからです。

不思議な傾向

実際の作物は、土壌の中から養分を吸い取って生長するものです。

一方、文化というのは概念的なもの、つまり「形のないもの」です。

「形のないもの」とは「無限であるもの」と捉えることも出来ますよね?

であれば、穀物や果実とは違って、文化とはクリエイターのアイデア次第でどこまで増殖していっても別に何らおかしくないように思われます。

それなのに、無尽蔵であるような感じさえする文化においてすら、ポンポンと作品が創られると、どんどん小ぶりになっていく傾向が見受けられるのです。

これが私の思う「不思議な傾向」です。

まるで土壌の栄養素が欠乏して起きる「連作障害」みたいな現象ですよね。

小ぶりな作品とは、ここでは感動の少ない作品を指します。

そして大ぶりな作品というものは、なぜかある程度の周期でしか現れてくれません。

文化が無限だというのなら、大ぶりの作品だって、毎日のように生まれてきてくれるはずです。

というより、ひと昔前より作品が創られるペースは上がっているはずなのに、大ぶりな作品が登場する周期はかえってひどくなっているような……。

それが「不思議な傾向」だと私が感じるのは、そこに理屈が見いだせないからです。

ノウハウが確立され、創作のペースも上がっているのなら、昔よりもっと短い周期で大ぶりな作品が出てきても良さそうなものです。

感覚としては、創作環境とクリエイターという「土壌」さえ整っていれば、どこまでも新しい傑作が生まれていきそうな感じがありませんか?

というよりも、むしろ作れば作るほど「土壌」の経験値が上がって、表現や演出などが日進月歩で進化していきそうな感じすらありませんか?

なのに現実はそうではありません。

たとえ予算や人手を確保し、構想に十分すぎる時間を取ったとしても、ポンポンと収穫されるものは小ぶりになりやすい感じがあります。

まるで行きわたる養分の上限が決まっていて、それを作品ごとに分け合っているような感覚。

「小ぶりな方が受け手に好まれるから」とかはここでは関係ありません。

問題なのは受け手側に需要があるかどうかではなく、そもそもメニューに大物が並ばないもしくは並べることができない感じと言いますか……。

全部お前の主観じゃないかと言われたら返す言葉もありませんが……。

私が気になるのは、お金とか客の意見とかそうした具体的なものを飛び越えたところで「何か」が分割されているのではないかという点です。

その「何か」……。

たとえるなら「クリエイターの魂」的な「何か」です。

そして、そうした部分を破綻なく表現できるのが、この「創作の土壌」という比喩だと思っています。

「埋もれた作品」についての考察

また「創作の土壌」という比喩からは、土の中で養分が保存・保護されるようなイメージも喚起されます。

これは上記の「連作障害」現象とも関連付けて考えることができそうです。

というのも、白日の下に晒け出された文化というものは、往時の面影が感じられないほど色褪せてしまう様子がしばしば見られるからです。

まるでそういう運命を背負っているかのような塩梅で、どのような文化も、衆目に晒されると例外なく錆びていってしまいます。

ずっと表舞台に立たされ続けると、不思議なことに、まるで生き物のように消耗し、摩耗していってしまうのが文化というものらしいのです。

マイナー好きの人たちが、自分の推し文化がメジャーになるのを恐れる背景には、そうした事情が含まれているような気がします。

本当に、一度でも弾みがつくと、まるで坂道を転げ落ちるように痩せて枯れてダメになっていってしまうようです。

そうしたものたちを、人の目から保護し、人知れず熟成させ、花開くに相応しい時機が訪れるまで保管する役割……。

そのような「あえて作品を埋没させるような作用」を文化そのものが有している表現として、「創作の土壌」という比喩は最適であるような気がします。

世間的に日の目を見なかった作品のことを「埋もれた作品」と呼びますよね。

作品が人に知られることもなく無数の作品群のなかに埋没してしまうこと。

それは一見すると不幸な結末のように感じられます。

しかし、個人にとっては不幸なことでも、文化にとっては決して不幸なことではないのかもしれません。

それは、言ってしまえば「傑作がどれだけ埋もれているのか」が、そのジャンルの「土壌の豊かさ」の指標になり得ることを示唆しているようにも見えます。

だからこそ「創作の土壌」という表現に私自身が惹かれるのでしょう。

真に魅力的なものは世間から忘れられたアンダーグラウンドにしか存在しない。

真偽はともかく、そのような主張にもつい頷きたくなってきます。

表現ひとつで変わる思想

自分の作品が他人に受けるかどうか。

それは、ほとんど運に左右されると思います。

評価は他者に委ねるしかないという歯がゆさは、創作をしていると嫌でも実感せざるを得ません。

そこに関して、作者のほうから打てる手というのは、あまりありません。

人事を尽くして天命を待つ。

傑作を生みだしたいとなれば、現時点での全総力をつぎ込んで創作にあたるのが当然ですよね。

それが鳴かず飛ばずだった日には……。

考えるだけでも気が滅入ります。

そんな時、こういう思想があったら少しは報われるのではないかと考えました。

「ああ、自分の作品は文化の礎となったんだ」と。